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論功行賞と三成の処刑

家康は西軍の首謀者で敗戦後逃亡し行方不明となっている三成や宇喜多秀家、安国寺恵瓊、長束正家らの捕縛を厳命。一方で大坂城無血開城を行うべく福島正則と黒田長政に西軍総大将である毛利輝元との開城交渉を命じている。家康は9月20日に京極高次の居城である大津城に入城し、しばらく留まった。この間北陸方面の東軍総大将であった前田利長が西軍に属した丹羽長重と青木一矩の嫡男・青木俊矩を連れて合流している。家康は両名の懇願を排し、改易処分とした。また家康が大津城に入城した同日に中山道軍総大将であった徳川秀忠が合流している。真田昌幸に上田城で翻弄され本戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は激怒、しばらく目通りを許さなかったが榊原康政の必死の諫言により9月23日対面が叶っている。

一方逃亡していた西軍諸将であるが、まず9月19日に小西行長が竹中重門の兵に捕らえられ、草津に滞在中であった家康本陣に護送された。続いて三成が9月21日、近江伊香郡高時村古橋において旧友である田中吉政の兵に逮捕された。逮捕された場所は三成の領内であり、同地の農民が処罰を覚悟の上で匿っていた。しかし三成は発覚したことを知ると自ら吉政の兵に身分を明かし、捕縛されている。捕縛後9月22日に大津へ送られ、東軍諸将とここで再会した。この時のエピソードとして福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に三成に労わりの声を掛けている。また小早川秀秋は三成に裏切りを激しく詰られたと伝えられている。9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌の兵によって捕らえられ、大津に護送された。この三名は9月26日に家康が大津城から淀城に移動する際大坂へ護送された。五奉行の一人で関ヶ原本戦に参じていた長束正家は居城である水口城へ戻っていたが、これを知った家康は池田輝政・長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させている。また細川忠興は家康の命を受け、父・細川幽斎の籠る丹後田辺城を攻撃した総大将・小野木重勝が拠る丹波福知山城攻撃に向かった。途中丹波亀山城において父と再会、田辺城の戦いに加わりながら戦意を見せなかった谷衛友、別所吉治、川勝秀氏、藤掛永勝らを従え9月23日より攻撃を開始した。重勝は徹底抗戦の構えを見せたが井伊直政と山岡景友の説得により開城。城下の寺へ蟄居する。

家康は淀城を経て9月27日に大坂城に入城、豊臣秀頼や淀殿と会見した後毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて家康に味方した諸大名の論功行賞の調査を開始、10月15日以降順次発表された。宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康の67万石を筆頭に豊臣恩顧の諸大名は軒並み高禄での加増となった。しかし何れも西国を中心に遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は家康の子供達や徳川譜代大名で占められた。また蔵入地が廃止されそれぞれの大名領に編入されたことで、豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津・河内・和泉65万石余りに事実上減封となった。一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地に含まれた。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転する。ただし今まではこの一連の論功行賞で豊臣家が一大名の地位に陥落したとする学説が一般的であったが、豊臣家がなお特別の地位を保持して徳川の支配下には編入されていなかったとする認識[22]が現在では主流となっている。また、莫大な秀吉の遺産である所蔵金はそのままであり、以後家康は大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすまでその対策に苦心する。9月30日、慶長出羽合戦を繰り広げていた上杉景勝の下にようやく西軍敗戦の報が伝えられ、長谷堂城にいた直江兼続は撤退を開始する。
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10月1日、大坂・堺を引き回された三成・行長・恵瓊の三名及び伊勢で捕らえられた原長頼[23]は京都六条河原において斬首された。首は三条大橋に晒されている。10月3日には長束正家と弟の直吉が自刃し、やはり三条大橋に首を晒された。福知山城を開城した小野木重勝は直政や景友の助言によって一旦は出家ということで助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し重勝は10月18日に丹波福知山浄土寺で自刃した。一説には父の面前で自刃させたとも伝えられている。この他赤松則英、垣屋恒総、石川頼明、斎村政広などがこの10月に自刃を命じられている。家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については両名とも東軍に内通していたが、長盛は死一等を減じられ武蔵岩槻に配流。玄以は所領の丹波亀山を安堵されるという両極端な処分が下された。一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は家康から追捕を厳命されていたが、厳しい探索網を潜り抜け薩摩へ逃亡を果たしている。

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2009年05月29日 08:16に投稿されたエントリーのページです。

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