2009年07月04日

製紙工業の確立

ヨーロッパでは、製紙の機械化がすすめられた。叩解には、伝播した時点から水車を動力源に石臼を動かすスタンパーが使われており、1680年にはより効率的なホランダービーターが発明された。連続型抄紙機は、1798年にはフランスのルイ・ロベールによって小型模型が作られ、1826年にイギリスのドンキンが完成させた。
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一方、紙の原料不足については、木材を使うことで解決された。1719年にフランスのレオミュールは、スズメバチが木材をかみ砕いて巣を作っている様子を観察した結果として、木材から紙を作ることができるという内容の論文を発表した。1840年、ドイツのケラーは砕木パルプを作るためのグラインダーを考案し、グラインダーは1846年に実用化された。また、1851年には苛性ソーダを用いた化学パルプの製造がイギリスで成功し、1854年に実用化した。当時、木材には針葉樹の丸太が使用された。 尚、当時はまだ紙は貴重であり、西欧視察に訪れた日本人が鼻をかんで捨てた紙を、人々が争って奪い合ったという。

以降、20世紀にかけて砕木パルプ・化学パルプともに改良が加えられ、木材を原料とした紙が機械で大量生産されるようになった。

1940年代以降、クラフトパルプ製造法が確立され、広葉樹を利用できるようになった。また、1960年には木材チップをパルプ化する方法が開発された。

2009年06月14日

サラダ油(サラダゆ、サラダあぶら、サラダ・オイル)は

サラダ油(サラダゆ、サラダあぶら、サラダ・オイル)は、精製植物油の一種で、食用油。

低温下でも長時間結晶化しないように精製されており、サラダドレッシングやマヨネーズのような製品の原料として適している日本独自の製品である。また、味・においにクセがないことも特徴である。

サラダ油は日本農林規格(JAS)により規格が定められている。従って、JAS規格のある原材料を用い、なおかつJAS認定工場で製造されたものでなければ「サラダ油」を名乗ることは出来ない。2007年6月現在、菜種、綿実、大豆、ごま、サフラワー(紅花)、ひまわり、とうもろこし、米(米糠)及び落花生にサラダ油の規格がある。また、二種類以上の植物油を混合して作られたサラダ油は調合サラダ油と呼ばれる。従って、オリーブ油や椿油のサラダ油は存在しない。ただし、これらの油を調合サラダ油の原材料として、規格の範囲で混合することは可能である。
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油脂は多くの種類の脂肪酸を含み、その中で飽和脂肪酸がグリセリンの1,3位に付いたものは低温で固化しやすい。すなわち対称性が良い物は結晶化しやすい。サラダは比較的低温で供されるので、もしこのような分子を含む油脂であればザラツキ感を与える。したがって精製した油を長期間冷蔵(ウィンタリング(wintering)という)し、固化した成分を分離し(この工程を脱蝋工程という)出荷される。この現象は天ぷら油を一週間冷蔵庫に入れるだけでも簡単に観察できる。

JAS規格においては、定められた低温の条件下で一定時間放置しても凝固や白濁しないことをサラダ油の条件としている(0℃の温度で5.5時間清澄であること)[1]。精製油の凝固はロウ分と上記の対称性の良い油脂が原因なので、サラダ油の製造にはこれらの除去が不可欠となる。

1924年に日清製油(現在の日清オイリオ)が「日清サラダ油」という商品名でサラダ油を販売したのが最初である[2]。当時西洋では、生野菜に酢と塩と油をあえて食べるのが流行していて、透明度が高く冷やしても白濁しにくい油が求められた。日清製油は、このようなサラダ料理にも使える精製度の高い良質の食用油として「サラダ油」を販売した。

近年、主原料である大豆の価格高騰により、サラダ油の価格も高くなっている。

2009年05月29日

論功行賞と三成の処刑

家康は西軍の首謀者で敗戦後逃亡し行方不明となっている三成や宇喜多秀家、安国寺恵瓊、長束正家らの捕縛を厳命。一方で大坂城無血開城を行うべく福島正則と黒田長政に西軍総大将である毛利輝元との開城交渉を命じている。家康は9月20日に京極高次の居城である大津城に入城し、しばらく留まった。この間北陸方面の東軍総大将であった前田利長が西軍に属した丹羽長重と青木一矩の嫡男・青木俊矩を連れて合流している。家康は両名の懇願を排し、改易処分とした。また家康が大津城に入城した同日に中山道軍総大将であった徳川秀忠が合流している。真田昌幸に上田城で翻弄され本戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は激怒、しばらく目通りを許さなかったが榊原康政の必死の諫言により9月23日対面が叶っている。

一方逃亡していた西軍諸将であるが、まず9月19日に小西行長が竹中重門の兵に捕らえられ、草津に滞在中であった家康本陣に護送された。続いて三成が9月21日、近江伊香郡高時村古橋において旧友である田中吉政の兵に逮捕された。逮捕された場所は三成の領内であり、同地の農民が処罰を覚悟の上で匿っていた。しかし三成は発覚したことを知ると自ら吉政の兵に身分を明かし、捕縛されている。捕縛後9月22日に大津へ送られ、東軍諸将とここで再会した。この時のエピソードとして福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に三成に労わりの声を掛けている。また小早川秀秋は三成に裏切りを激しく詰られたと伝えられている。9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌の兵によって捕らえられ、大津に護送された。この三名は9月26日に家康が大津城から淀城に移動する際大坂へ護送された。五奉行の一人で関ヶ原本戦に参じていた長束正家は居城である水口城へ戻っていたが、これを知った家康は池田輝政・長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させている。また細川忠興は家康の命を受け、父・細川幽斎の籠る丹後田辺城を攻撃した総大将・小野木重勝が拠る丹波福知山城攻撃に向かった。途中丹波亀山城において父と再会、田辺城の戦いに加わりながら戦意を見せなかった谷衛友、別所吉治、川勝秀氏、藤掛永勝らを従え9月23日より攻撃を開始した。重勝は徹底抗戦の構えを見せたが井伊直政と山岡景友の説得により開城。城下の寺へ蟄居する。

家康は淀城を経て9月27日に大坂城に入城、豊臣秀頼や淀殿と会見した後毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて家康に味方した諸大名の論功行賞の調査を開始、10月15日以降順次発表された。宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康の67万石を筆頭に豊臣恩顧の諸大名は軒並み高禄での加増となった。しかし何れも西国を中心に遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は家康の子供達や徳川譜代大名で占められた。また蔵入地が廃止されそれぞれの大名領に編入されたことで、豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津・河内・和泉65万石余りに事実上減封となった。一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地に含まれた。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転する。ただし今まではこの一連の論功行賞で豊臣家が一大名の地位に陥落したとする学説が一般的であったが、豊臣家がなお特別の地位を保持して徳川の支配下には編入されていなかったとする認識[22]が現在では主流となっている。また、莫大な秀吉の遺産である所蔵金はそのままであり、以後家康は大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすまでその対策に苦心する。9月30日、慶長出羽合戦を繰り広げていた上杉景勝の下にようやく西軍敗戦の報が伝えられ、長谷堂城にいた直江兼続は撤退を開始する。
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10月1日、大坂・堺を引き回された三成・行長・恵瓊の三名及び伊勢で捕らえられた原長頼[23]は京都六条河原において斬首された。首は三条大橋に晒されている。10月3日には長束正家と弟の直吉が自刃し、やはり三条大橋に首を晒された。福知山城を開城した小野木重勝は直政や景友の助言によって一旦は出家ということで助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し重勝は10月18日に丹波福知山浄土寺で自刃した。一説には父の面前で自刃させたとも伝えられている。この他赤松則英、垣屋恒総、石川頼明、斎村政広などがこの10月に自刃を命じられている。家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については両名とも東軍に内通していたが、長盛は死一等を減じられ武蔵岩槻に配流。玄以は所領の丹波亀山を安堵されるという両極端な処分が下された。一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は家康から追捕を厳命されていたが、厳しい探索網を潜り抜け薩摩へ逃亡を果たしている。

2009年04月25日

新アッシリア時代

アッシリアが全オリエント世界を支配する初の帝国を打ち立てるのがこの時代である。この時代は古代オリエント史において最も記録史料が豊富な時代であり、詳細な政治史の復元が可能である。占星術などの記録が豊富に残っており、天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能であるほか、アッシリア王名表、リンム表(概要を参照)、アッシリア・バビロニア関係史に代表される年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが分野の偏りがあるものの大量に残存している。アッシュール・ダン2世・アダド・ニラリ2世等によって中アッシリア時代後期の混乱が収められた後、アッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。いわゆるアッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのはティグラト・ピレセル3世の時代である。彼はバビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた。被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称で記録されたとされる。彼の治世からアッシュールバニパルの治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。この時代のアッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとにバビロニアでは反乱が発生し、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどいない。エサルハドンの時代にはエジプトにまでその領域が広がった。この時代のシリアにおけるアッシリアの行動はヘブライ人達によって旧約聖書に記録されている。

アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが大量捕囚政策としてしられる被征服民の強制移住である。強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた。

後世にはこうした力による強圧的な統治がよく伝えられ、アッシリアの支配を特徴付けるものと言われてきたが、アッシリアの帝国統治を単純に力のみによって行われた野蛮なものだったと捉えるのは誤りと、今日では考えられている。アッシリアは征服地や服属地域の文化や言語、宗教や政治体制に関する情報を詳細に収集し、それに基づく飴と鞭を使い分けた対応をとったことが同時代記録の分析から明らかになっている。こうした異文化情報の集積による帝国統治の手法は、アッシリア以降に登場した新バビロニア王国やアケメネス朝ペルシアのような広域統治を行った帝国に継承され、その統治技術の基礎となったと考えられている。

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またその国家は、本国たるアッシュルの地と周辺の征服地域は強く区別された。本国は、中アッシリア時代より拡大していたが、神格化された国土アッシュール神という宗教イデオロギーで結びついていた。各征服地がどのように統治されたのかについては地域差があり、また学者の間でも議論のある所である。バビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあった。これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。

こうした巨大帝国も、アッシュールバニパル治世後半から急激に衰退し、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまう。この衰退の原因が何であるのかは分かっていないが、王家の内紛や広大な領土・多様な被征服民族を統治するシステムの構造的な問題が噴出したものとも考えられている。北方からスキタイ等の外敵に圧迫され、領内では各所で続発する反乱を抑える事が出来なくなっていき、紀元前625年には新バビロニアが独立する。紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落した。亡命政権がハランに誕生し、アッシュール・ウバリト2世が即位、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡した。だが、アッシリアに続く新バビロニアやメディア、アケメネス朝ペルシアはアッシリアの行政機構の多くを取り入れた。

2009年04月08日

ブリットポップ・ブームの波に乗って

1995年にはブリットポップ・ブームの波に乗って、個性豊かな新人、若手バンドが次々とシーンに登場した。その中には当時10代のギャズを中心として勢い溢れる楽曲で人気を博し、デビューアルバム『アイ・シュド・ココ』を全英1位に叩き込んだスーパーグラス、ザ・スミスから強い影響を受けたジーン、音楽自体よりもそのルックスで注目を集めた感のあるメンズウェア、印象的な女性ボーカルを擁するエラスティカ、エコーベリー、スリーパーなどがデビューし注目を集める。
またブーム以前から活動を続けてきたシャーラタンズ、パルプ、ポール・ウェラー、ブー・ラドリーズらもシーンを大いに盛り上げた。その中でも特に上記の2大バンドにも劣らぬ人気を持っていたパルプは1978年に結成してから長いインディーズ時代を過ごし、93年にようやくメジャー契約を結んだ後に徐々に知名度を上げ、95年、名曲「コモン・ピープル」でその人気が爆発し、一躍スターダムにのし上がったという苦労を重ねてきたバンドであった。また、かつてザ・ジャム、ザ・スタイル・カウンシルのヘッドマンとして頂点を極めたものの、スタイル・カウンシルの消滅とともに一時は引退も囁かれていたポール・ウェラーがソロ転向3作目『スタンリー・ロード』を全英1位に送り込んで完全復活を果たし、こうしたキャリアの長いアーティストたちの躍進もブームにいっそう火をつけていく。
ブリットポップ・ブームは社会現象と化し、ミュージシャン達がバラエティ番組への出演や新聞に載るなど身近なものへと浸透していった。更には業界の枠を超え、モデルとなってファッション雑誌にイギリス国旗をあしらった衣類を着て登場するなどの変わった一面も見せていた。

メディアは音楽のみならず、ファッション、芸術などイギリスのポップカルチャーの特集を組み、「クール・ブリタニア」と呼ばれるこれらの状況を指す用語が登場し、広く用いられるようになった。

それを象徴するかのように1996年、ユアン・マクレガー主演の青春映画「トレインスポッティング」が公開される。劇中で使われている楽曲にブリットポップ系バンドが多数参加した効果もあって、映画はロングラン・ヒットを記録。まさにイギリスのエンターテイメント界は絶頂と言える時期を迎えたのであった。

ブリットポップ頂上対決 [編集]
ブリットポップブームの中で最も注目を浴びたのが、オアシスとブラーのシングル同日発売である。

以前から仲が悪く、階級、音楽性の違い、出身地など全てにおいて対照的で、ライバル関係にあり、人気を二分していた両者。特にオアシスはメディアが自分達よりもブラーのアルバムに賞賛を送っていたことが気に入らずに日頃からブラーを罵っていた。

そして1995年、そういった緊迫したムードの中、対決の日が訪れる。オアシスはニューシングル「ロール・ウィズ・イット」を8月14日に発売すると発表。それに対し、ブラー側が発売日を合わせニューシングル「カントリー・ハウス」を同じ8月14日に発売すると発表した。

どちらがチャート1位を獲得するかメディアはこの騒ぎを煽り立て、イギリス中がこのシングル対決に大注目した。さらにはBBCの6時のニュースでもこの模様が「ビートルズ対ローリング・ストーンズの再現」と報道されるなど普通では考えられない出来事が起こった。

大方の予想はブラーやや有利と見ていたがその予想通り結果はブラーの勝利に終わった。ちなみに、これに怒ったノエルが「ブラーのデーモンとアレックスはエイズにでもかかって死ねばいい」 とコメントし、当時大問題となった。しかしシングル対決こそ敗れはしたものの、アルバムではオアシスの2nd『モーニング・グローリー』がイギリスのみならず、全世界で1800万枚を売り上げるヒットを記録(アメリカでは最高位4位を記録)し、ブラーの『ザ・グレート・エスケープ』 から大勝利を収める。対決に勝利したオアシスは、11月にはロンドンのアールズ・コートで、ヨーロッパの屋内ライブとしてはギネス記録である、2日間4万人を動員するライブを開催。さらに翌年の1996年、MTVアウォーズ(EURO)でベストグループ賞を受賞し、8月にはロンドン郊外のネプワース公演にて2日間で25万人を集めるなど、まさにバンドとして絶頂を極め、ブリットポップの雄となったのであった。
また1996年に入っても、ブリットポップムーブメントは衰えることなく、次々と実力派の新人バンドがデビューしていった。青く繊細な楽曲で人気を集め、オアシスの『モーニング・グローリー』を蹴落として、デビューアルバム『エクスペクティング・トゥ・フライ』が全英1位に輝いたブルートーンズ、平均年齢十代にしてメジャーデビューアルバム『1977』を全英一位に送り込んだアイルランド出身のアッシュ、インド志向を打ち出し、デビューアルバム『K』がオアシス以来の最速売り上げを記録したクーラ・シェイカーなどが代表的である。

その一方で、華やかな新人バンドのみならず中堅勢の躍進も数多く見られた。スウェードは、新メンバーの加入後に発表した3rdアルバム『カミング・アップ』を全英1位、また5枚ものトップ10シングルを送り込むなど、再びロックのメインストリームに返り咲いた。かたや、オリジナル・メンバーのリッチー・ジェームスが失踪するというアクシデントに見舞われたマニック・ストリート・プリーチャーズは、3ピース改編後初の『エヴリシング・マスト・ゴー』が大ヒットを記録し、国民的バンドとしての地位を確立する破格の再出発をきった。またオーシャン・カラー・シーンは、前作から4年もの空白期間を余儀なくされたレーベル移籍のトラブルを乗り越え、2ndアルバム『モーズリー・ショールズ』を全英2位と大ヒットさせた。

わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

2009年03月25日

デ110形

1924年(大正13年)と1926年(大正15年)に、自社松島工場で製造された両運転台式の制御電動車で、3両(デハ110 - 112)が存在した。これらのうち110は、国有化はるか以前の1928年(昭和3年)に三河鉄道へ譲渡され同社のデ200となり、末尾の112が2代目110に改番されている。

三河鉄道デ200は、後の合併により名古屋鉄道モ1100形(1101)となり、名鉄モ3700系電車走行機器を譲り廃車された。

車体は、デ100形、デ200形とほぼ同様の16m級木製であるが、窓配置は、1D151D151D1と扉間の窓が1枚多く、その分1枚当たりの幅が狭くなっている。電動機についてはデ100形と同様の78.3kW×4であるが、台車は汽車製造製のKS-30Lであった。

買収後は、伊那松島に配置され飯田線北部で使用されたが、同区間の昇圧に伴って富山港線に移り、1953年の車両形式称号規程改正時点では110が両運転台の制御電動車、111は電装解除されて片運転台の制御車となっていた。そのため、110がモハ1910形(1910)、111がクハ5920形(5920)となっている。1910は1950年(昭和30年)3月に廃車解体、5920は1954年(昭和29年)3月に廃車、北陸鉄道に譲渡されている。


デ120形 [編集]
1927年(昭和2年)に、汽車製造東京支店で製造された両運転台式の制御電動車で、5両(デハ120 - 124)が製造された。車体デザインや走行機器類はデ110形を踏襲するものの、車体を鋼製とした半鋼製車である。

買収後は伊那松島に配置され、僚車とともに飯田線北部で使用されたが、1952年に福塩線用として府中町電車区に転属。さらに1953年には富山港線に転用された。同年6月に実施された車両形式称号規程改正では、モハ1920形(1920 - 1924)に改番されたが、1920 - 1923は1956年3月、1924は1955年3月に廃車され、全車が私鉄に払下げられた。

附随客車 [編集]

サ100形 [編集]
1924年(大正13年)に日本車輌製造東京支店で3両が製造された木製付随車で、製造当初は1 - 3と称したが、第2次大改番によりサ100形(100 - 102)となった。二等三等郵便荷物合造車で、記号は「サロハユニフ」という非常に長いものであった。1937年(昭和12年)9月1日付けで二等車が廃止されたため、記号は「サハユニフ」に変更され、この状態で1943年の買収を迎えた。この時点での車体の特徴を次に記す。

車体は全長16m級のモニタールーフを持つ木造車で、車体の半分が郵便室(荷重3t)、その次位に荷物室(荷重1t)、後位側は三等室で定員は32人(うち座席16人)である。便所は、前位側と後位側の車端部に2か所設けられており、三等室は便所の位置の関係で左右で扉の位置がオフセットされている。台車は釣合梁式のTR10、自重は25tである。

1937年の三信鉄道全通により豊橋 - 辰野間の直通運転が開始されたのに伴い、本形式は直通運転用に使用された[5]。国有化後は豊橋機関区に転属し、引き続き直通運転用に使用されたが、この間の1945年(昭和20年)2月に、100が土砂崩れにより宇連川に転落して廃車となっている。

本形式は、飯田線北部の1500V昇圧にともなって営業運転から退き、1952年(昭和27年)に救援車に改造され、妻面に観音開き式の扉が設けられた。翌年6月の改番では、サエ9320形(9320, 9321)に改称され、9320は中部天竜機関支区、9321は豊橋機関区の配置となった。豊橋の9321はクエ28形の就役に伴って1964年(昭和39年)に廃車となったが、中部天竜の9320はさらに長命を保ち、1979年(昭和54年)まで在籍して、国鉄最後の木造電車となった。

サ110形 [編集]
1926年(大正15年)自社松島工場製のサハフ312を、1937年に三等郵便荷物合造車「サハユニフ」に改造したもので、サ100形とともに直通運転用に使用された。サ100形と同様の経過をたどって1953年に救援車に改造され、同年6月の改番ではサエ9330形(9330)となったが、1959年(昭和34年)12月の番号整理によりサエ9320形に編入され、9322と改番された。本車は、伊那松島機関区の救援車として使用されていたが、1971年(昭和46年)に後継のクモエ21形が配置されたのに伴い廃車解体された。

サ200形、サ300形→サ210形・サ220形 [編集]
1920年日本車輌製造東京支店で製造された、車体長14m級の600V電化時代の木製電動車(ホ1 - 3)を昇圧後に電装解除により付随車化したものである。1926年の第2次大改番により、番号順にサ300形(サハフ300, 301)、サ200形(サロハフ200)に改められた。その後1929年(昭和4年)に全車が再改造され、上記の順番でサ220形(サハニフ220)、サ210形(サハニフ210)、サ200形(サハニフ200)となっている。

国有化後は、従来同様伊那松島機関区の配置で、後付付随車として運用された。サハニフ200は1951年、サハニフ210は1950年、サハニフ220は1952年に廃車解体されており、国鉄形式は与えられていない。

サ310形 [編集]
1926年汽車製造東京支店製の三等付随車で、車体長16m級の木造車である。3両(サハフ310 - 312)が製造されたが、1937年に312が三等郵便荷物合造車(サハユニフ110)に改造され、1943年の国有化時点では2両(サハフ310, 311)が在籍していた。その後も伊那松島機関区に配置されていたが、1952年に310は救援車に改造のうえ客車に類別変更されナヤ16870と改番、311も同年解体されたが、旧南海鉄道(阪和電気鉄道)モタ307の廃車体をクハ752として復籍させる際の名義上の改造種車となっている。

サ400形 [編集]
1929年に製造された半鋼製で丸屋根を持つ車体長16m級の三等荷物合造付随車である。汽車製造東京支店で3両(サハニフ400 - 402)、日本車輌製造東京支店製の2両(サハニフ403, 404)の計5両が製造された。両者は基本的には同形同大であるが、細部に違いがある。側面窓配置は、1D(荷)4D6D3で、荷物室の荷重は2t、三等室の定員は90人(うち座席48人)で、三等室の扉間にはボックスシートが6組配置されている。自重は25t。

国有化後は、伊那松島機関区にあって従来同様後付付随車として使用されたが、1952年6月に運用の合理化のため400と401が荷物室を運転室に転用して制御車化され、記号が「クハ」となっており、翌年の車両形式称号規程改正によりクハ5900形(5900, 5901)に改められた。両車は1958年(昭和33年)2月および3月に、試作交流直流両用電車の電源車に改造され、73034, 73050とユニットを組んで、作並機関区に転属、仙山線での交流電化の試験に供された。1959年の車両形式称号規程改正でクヤ490形(1, 11)に改番され、さらに1960年には営業用にも使用されることとなって、クハ490形(番号同じ)に改称された。廃車は1966年(昭和41年)2月である。

付随車のまま残っていた3両(402 - 404)は、1952年に仙石線に転出し、1953年の車両形式称号規程改正でサハニ7900形(7900 - 7902)に改められたが1957年2月に廃車され、うち7901と7902は翌年、弘南鉄道に譲渡された。


譲渡 [編集]
デハ200 - 伊豆箱根鉄道モハ45(1952年) → 車体振替(1960年代) → 廃車(1970年代)
デハ204 - 岳南鉄道モハ201(1952年) → モハ1101(1959年、日車標準車体に更新) → 近江鉄道モハ101(1987年)
1900 - 北陸鉄道浅野川線モハ851(1954年11月) → 廃車(1962年6月)
1901 - 上田丸子電鉄丸子線モハ5261(1954年) → モハ5271(1959年、車体振替 東急クハ3220形) → 廃車(1969年)
1920 - 北陸鉄道浅野川線モハ3101(1956年) → 石川線クハ1151(1966年2月) → 廃車(1968年2月)?
1921 - 北陸鉄道浅野川線モハ3102(1956年) → 石川線クハ1152(1966年2月) → 廃車(1967年)
1922 - 北陸鉄道石川線モハ3103(1956年) → モハ3151(1966年2月) → 廃車(1968年2月。台車電装品はモハ3771に転用)
1923 - 北陸鉄道石川線モハ3104(1956年) → モハ3152(1966年2月) → 廃車(1967年。台車電装品はモハ3772に転用)
1924 - 新潟交通モハ16(1957年1月) → 車体振替(1969年6月。小田急デハ1409) → 廃車
5910 - 上田丸子電鉄丸子線クハ261(1954年) → クハ271(1959年、車体振替 東急クハ3220形) → 廃車(1969年)
5920 - 北陸鉄道浅野川線クハ501(1954年11月) → モハ852(時期不詳) → 廃車(1962年6月)
7901 - 弘南鉄道クハニ1272(1958年12月) → 廃車(1985年10月)
7902 - 弘南鉄道クハニ1271(1958年12月) → 廃車

みかんいろ バリトン サーファ マスター ハンディー ニュルン すみのえ ロフルス タラップ ステン ハート フォロワー ダイヤ ディク ランド パーク カーブ シャト ラン トップ とうたい ジャン ルー メルク ニックス カレワ とうみょう ぶきいろい ディッシュ ラベル タオイズ ダイアモンド ショウ ベッド おじま ハイボー タイプライ 宇宙ステー ピンタック オートクチ ティンカー カラム モッコク ヤード きくらげ トータル ケトン ヒョウ メンバー チャンネル

2009年03月09日

ミケランジェロ・ブオナローティ

ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。名前はミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたもの。

西洋で最も巨大な絵画の一つとも言われるバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画や『最後の審判』、パオリーナ礼拝堂にある『聖ペテロの磔刑』、『パウロの改宗』を描いたことでよく知られている。もともとは彫刻家であり、『ピエタ』や『ダビデ像』等の傑作のほかにも『バッカス』、『モーセ』、『ラケル』、『レア』などが有名である。バチカンの『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもある。
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティとともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれる。ミケランジェロは長命であり、作品も盛期ルネサンスの時代から、マニエリスムの時代への移り変わりを示している。また躍動的な表現は、次のバロックの時代を準備したといわれる。
ミケランジェロはフィレンツェ共和国(現在のイタリアのトスカーナ州)カプレーゼに生まれた。父ロドヴィコ (Lodovico) はカプレーゼで判事をしていたが、ミケランジェロはフィレンツェで育ち、後に父が大理石の採掘所と小さな工房を構えていたフィレンツェ近郊のセッティニャーノで彫刻家とその妻と共に暮らしていた。

幼少の頃から絵画や彫刻に興味を示し、父親の希望に添わず1488年、13歳でドメニコ・ギルランダイオに弟子入りした。ドメニコは彼の才能に感心し、フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介した。ロレンツォはミケランジェロを自宅に引き取り学ばせた。その間にプラトン・アカデミーに集まる人文主義者たちやベルトルド・ディ・ジョバンニなど多くの突出した人々と出会い、芸術に関する着想を広げ、大きな影響を受けた。それだけではなく性に対する感情についても同様に影響を受けた。ミケランジェロはこの時期に『ケンタウロスの戦い』『階段の聖母』の二つの浮き彫りを制作している。

ロレンツォが亡くなった1492年、ロレンツォの子で後継ぎのピエロはミケランジェロへの後援をやめた。ミケランジェロはフィレンツェを離れボローニャで3年ほど生活した。その後すぐの1496年にサンジョルジオ枢機卿がミケランジェロ作の大理石の天使を購入し、彼をローマへと招いた。ミケランジェロはローマで古代彫刻の影響を受けながら、5年の間とどまり、『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)とバッカスを作った。

この間、フィレンツェではメディチ家の追放、サヴォナローラによる神制政治、サヴォナローラの失脚、新たな共和国体制、と政変が続いていた。ミケランジェロはそうした時期のフィレンツェに戻り、1501年に共和国政府の依頼で彼の代表作のひとつであるダビデ像を4年かけて制作した。ダビデ像は市庁舎(のちヴェッキオ宮)前に設置された(現在はアカデミア美術館に移され、市庁舎前にはレプリカが置いてある)。ダビデ像はフィレンツェの共和制のシンボルとなった。また、『聖家族と幼児洗礼者ヨハネ』もこのときに制作している。

1506年、ミケランジェロはローマ教皇ユリウス2世にローマへ呼び戻され、教皇の墓廟を制作するよう命ぜられる。墓といっても彫刻を多数並べた巨大な構築物である。しかし多数の仕事を命ぜられたミケランジェロは、制作を何度も中断せざるを得なかった。また墓標の規模も度々変更された。墓廟の制作には40年も関わることになり、モーセ像などが制作された。

1508年、今度はユリウス2世から墓廟の制作より先に バチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられた。自分は彫刻家であり、画家ではないと拒んだが、しぶしぶ教皇の命令に従った。弟子の仕事ぶりが気にくわず、結局一人で制作を続けた。礼拝堂内に足場を組み、横になって苦しい作業を続け、1512年までの4年間をかけて創世記をテーマにした『天地創造』の大フレスコ画が完成した。

1513年にユリウス2世が死ぬと、メディチ家出身のレオ10世(ロレンツォの次男)が教皇に即位し、ミケランジェロにフィレンツェのサン・ロレンツォ教会外観の設計などを命じた。教皇は若い頃、ミケランジェロと共に暮らした間柄でもあるが、気難しい性格のミケランジェロを敬遠し、フィレンツェに遠ざけたといわれる。ミケランジェロは渋々承諾し、図書館やメディチ家礼拝堂の新聖器室などを建設するが、教会の外観は現在に至るも未完成のままである。1527年、教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)のときにローマ略奪が起こると、メディチ家はフィレンツェから再び追放される。共和制に共感したミケランジェロはフィレンツェ共和国の築城長官に就任するが、これはメディチ家に対する背信的な行為であった。

1530年にメディチ家がフィレンツェに復帰すると、ミケランジェロはフランスへ逃亡するが、クレメンス7世はミケランジェロの行為を不問にしてローマに呼び戻す。クレメンスはシスティーナ礼拝堂の祭壇背後の壁画を依頼するが、ミケランジェロは中断していたユリウス2世の墓廟の完成を望み、壁画の仕事には気が進まなかった。しかし、次の教皇パウルス3世が強く催促したため、壁画『最期の審判』を1536年から1541年までかけて完成させた。

1546年には建設工事中であったサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となる。当時、構造上の問題や度々の設計変更で工事は停滞していたが、ユリウス2世当時のプラン(建築家ドナト・ブラマンテが構想していた集中式の教会堂)を元に設計し直し、建設を進めていった。1564年、ミケランジェロが亡くなったときは、大ドームの基部付近まで工事が進んでいた。


2009年02月20日

アクシズ(Axis)

アクシズ(Axis)は、アニメ『機動戦士ガンダム』シリーズに登場する小惑星基地。また、そこを本拠地としたジオン残党勢力の一つ。語源は枢軸国(Axis Powers)より。
ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

アクシズ本体は扁平な中央部の上部に1つ、下部に2つの円錐を取り付けたような形の一枚岩である。中央部の側面には4基の巨大な核パルス・エンジンが搭載されており、アクシズの推進力となっている。アクシズ上部には「モウサ」と呼ばれる球状の小惑星が無数の鉄骨剤のようなもので接続されており、そこが居住空間、ミネバ、ハマーンの本拠となっている。アクシズ本体は要塞化されているが、内部には規模の大きな商店街も形成されている描写がある。

小惑星基地 アクシズ
アクシズは、宇宙世紀0072年にジオン公国が建設に着手した小惑星基地で、当初は火星と木星の間のアステロイドベルトに存在していた。アクシズはソロモンやア・バオア・クーを地球圏に送り出す際の司令基地として、また、木星ヘリウム輸送船団の拠点としても利用されていた。

隠遁状態と勢力拡大
一年戦争終結直前、ア・バオア・クーでの最終決戦において敗北を悟った艦艇が次々と戦闘宙域を離脱し、逃亡。一部はデラーズ・フリートなどのように地球圏にその姿を隠した勢力もいたが、大半がアクシズに向かった。彼らの中にはシャア・アズナブル、ミネバ・ラオ・ザビとその母ゼナらがいた。宇宙世紀0081年3月28日にアクシズに到着、その後2年の歳月をかけて要塞化された。その間、ジオン共和国からの亡命者など、人口の流入が続き、居住空間(モウサ)の拡張も行われ、総人口は3万人に及んだ。アクシズに逃げ延びた人々の中には技術者も多数含まれており、新型モビルスーツやモビルアーマー、宇宙艦艇の開発が続けられた。

アクシズに潜伏していたジオン残党はミネバ・ラオ・ザビを王女として擁していたが、幼少であったため、ジオン公国高官であったマハラジャ・カーンが実権を掌握していた(ゼナはアクシズ到着後に死亡している)。宇宙世紀0083年8月9日にマハラジャが亡くなると、シャアはマハラジャの子、ハマーン・カーンをミネバの摂政として推挙、以降はハマーンが実権を握ることとなる。

地球圏への帰還
宇宙世紀0083年に勃発したデラーズ紛争においては地球圏にグワンザン以下の先遣艦隊を派遣し、デラーズ・フリートにノイエ・ジールを提供。デラーズと共闘を目論む強硬論もあったが、ハマーンはこれを抑え、デラーズ死亡後は残存兵力を収容しつつアクシズへ帰還した(OVA『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』)。

なお、デラーズ紛争直前、ハマーンが摂政になった直後、シャアは偵察任務を帯びて地球圏へ舞い戻っている。その後、ハマーン・カーンは、宇宙世紀0086年2月6日、核パルスエンジンによって、アクシズ自体を地球圏に向けて発進させた。そして自らの勢力をアクシズ(後にネオ・ジオン)と名乗り、ジオン再興のために動いていく事となる。

グリプス戦役への参加
グリプス戦役が始まった宇宙世紀0087年にアクシズは本拠地ごと地球圏に帰還。『機動戦士Ζガンダム』では後半(テレビ版では32話、劇場版では第2部終盤)から登場し、エゥーゴにもティターンズにも与しない第3勢力としてグリプス戦役に加わる。グリプス戦役においては、グワジン級戦艦の設計を改良・発展させた「グワダン」「グワンバン」の新造戦艦2隻と、ガザC部隊及びハマーン専用のキュベレイを戦線に投入している。

新たなるジオン
エゥーゴ・ティターンズ両勢力とも戦力の大半を失ったこの戦役終結時も、アクシズは戦力の大半を温存する事に成功。一年戦争後も活動を続けていたジオン残党と合流。またティターンズの一部残存勢力(ペズン教導団など)を接収し、ジオン共和国(サイド3)を占領した際「ネオ・ジオン」と改名する。

第一次ネオ・ジオン抗争時には、より強力かつ多数の戦力を投入し、地球にも侵攻した。その後も優勢に戦局を進めたが、グレミー・トトの内乱により多数の戦力を失い、ほぼ自滅の様な形でエゥーゴ主導となった地球連邦に屈した。その後アクシズ本体は宇宙世紀0093年の第二次ネオ・ジオン抗争まで地球連邦政府の管理下におかれた(『機動戦士ガンダムΖΖ』、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』)。

劇場版『機動戦士Ζガンダム』3部作のラストではミネバ(と、おそらくは兵力の一部)を残したまま、再びアステロイドベルトに戻ろうとしていた。

アクシズ所属モビルスーツ

アクシズ工廠の開発モビルスーツ ・モビルアーマー
キュベレイシリーズ

AMX-004 キュベレイ
AMA-00GR ゼロ・ジ・アール
AMA-002 ノイエ・ジール
AMA-100 ゾディ・アック
ザクシリーズ

AMX-011 ザクIII
AMX-011S ザクIII改
ガズシリーズ

AMX-117 ガズR
AMX-117 ガズL
ガザシリーズ

AMX-002 ガザB
AMX-003 ガザC
ガザC ハマーン専用機
ガザC改
AMX-006 ガザD
AMX-007 ガザE
AMX-008 ガ・ゾウム
量産系機体

AMX-101 ガルスJ
AMX-102 ズサ
AMX-009 ドライセン
AMX-107 バウ
AMX-014 ドーベン・ウルフ
AMX-01X ジャムル・フィン
試作機

AMX-103 ハンマ・ハンマ
AMX-104 R・ジャジャ
MS-14J リゲルグ
AMX-015 ゲーマルク
NZ-000 クィン・マンサ

アクシズ工廠の主な開発した技術
ファンネル
ガンダリウムγ

代表的な人物
ハマーン・カーン
ミネバ・ラオ・ザビ

戦略兵器としてのアクシズ
地球圏にはない巨大な小惑星であった事と、核パルスエンジンによる移動が可能であったため、戦略兵器としても利用された。

宇宙世紀0087年のグリプス戦役では、居住区モウサを切り離した上でティターンズの一大拠点ゼダンの門に本体をぶつけて完全に粉砕、更にそのままエゥーゴの賛同者が多い月面都市グラナダにぶつけようと試みるが、このときアクシズは完全に空き家となっており、激突させるまで敵に奪われることがないよう周囲に自軍の戦力を置くといった措置を特にしなかったため、アーガマのクルーによりアクシズ内部に潜入された結果、内部の通信施設を利用してグリプス2に打電、そのコロニーレーザー照射で押し返された。

宇宙世紀0088年の第一次ネオ・ジオン抗争ではモウサをコア3にぶつけて破壊した。

宇宙世紀0093年の第二次ネオ・ジオン抗争時は、地球連邦が管理していたが、シャアの率いるネオ・ジオンが交渉で手に入れる。ネオ・ジオンはアクシズを地球に落とそうとするが、ロンド・ベル隊の阻止活動により内部より破壊され2つに分裂する。分裂したうちのひとつは地球への落下コースに乗ったものの、アムロ・レイが引き起こしたサイコフレームの共鳴でコースを変えたため、ネオ・ジオンの作戦は失敗する。その後の行方は不明。

2009年02月04日

三善氏(みよしし)は、日本の姓氏の1つ

三善氏(みよしし)は、日本の姓氏の1つ。元は渡来人系の一族であるが、実際には百済系の一族と漢族系の一族の2系統が存在する。ただし、後世において2つの系統が結び付けられているものがある。
バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

百済系三善氏
『新撰姓氏録』によれば、元は百済の速古大王の末裔で錦部首、後に錦部連を名乗った。延暦年間の桓武天皇後宮に、錦部姉継・同弟姉という女官がいた。同24年(805年)頃にその一族が三善宿禰を授けられた。醍醐天皇の時代に三善清行が大学頭・文章博士を務めて参議まで至り、延喜3年(903年)頃には姓を宿禰から朝臣に改められた。子として文章博士文江や式部少輔文明、僧侶の浄蔵・日蔵が知られるが、文明の子・道統が文章博士になったのを最後に歴史から姿を消す。

漢族系三善氏
『類聚符宣抄』によれば、元は漢の東海王の末裔であった波能志(はのし)の子孫で錦部村首、後に錦宿禰を名乗った。貞元2年(977年)頃に三善朝臣の姓が授けられ、その1人であった三善茂明が主税頭兼算博士に就任し、その子孫は代々算博士を継いだ。茂明の孫の三善為長は、越中国出身の門人射水為康を養子に迎えた。三善為康は算道・紀伝道に通じた学者として多くの著作を残している。その子孫である三善長衡以後、代々西園寺家家司を務めた。地下官人の今小路家はその子孫とされる。

また、鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信もこの一族とされ、子孫として町野氏・太田氏・飯尾氏・布施氏らが挙げられる。彼らは鎌倉幕府引付衆あるいは室町幕府奉行衆として活躍した。

三善氏には2つの系統があり、紀伝道を世襲した三善氏と算道を世襲した三善氏は別系統であったのは史料等で明らかであるが、後年後者の子孫は自己の学識の由来を高く見せるために高名な学者・公卿である三善清行と結び付けようとした。清行の次の世代に左大史を務めた錦良助(錦宿禰)を三善氏の旧姓である錦部首を名乗った後に錦宿禰を授けられた清行の子とし、その子錦連行を三善茂明の父として位置づける系図を作成した(『諸家系図纂』所収「南家系図」など)。だが、錦連行の実在性は確かではなく、実在人物である錦良助と三善清行・三善茂明との血縁関係の有無も不明である(勿論、「三善清行?錦良助?錦連行?三善茂明」という茂明を清行の曾孫とする系譜は事実ではない)。また、三善康信が為康の血縁であることは間違いないと考えられているが、系譜上為康の子・康信の父とされる三善康光(康久)についての詳細は不明で実際に為康と康信がどのような血縁関係にあるのか定かではない。

渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、狭義には、中国大陸から南西諸島・朝鮮半島などを経由して、古代日本に渡来帰化した人々を指す。渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しても、黄河流域?山東半島、揚子江流域、満州?朝鮮半島など様々で、渡来の規模とともに今なお議論の対象となっている(最近の遺伝子研究ではおおむねにおいて渡来人は北東アジア起源が有力である[1][2][3]。)。(水稲)稲作に始まり、後には仏教や寺院建築技術などを日本に持ち込み、古代日本における文化・政権形成に大きな役割を演じたと考えられている。

古くは縄文時代の終わり、約2500年前頃よりアジア大陸から、春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡ってきたと思われる。考古学的調査により、彼らが最初に水稲を持ち込み(陸稲は約3500年前から存在。約6000年前からという説も)、いわゆる弥生時代に繋がっていく。その後古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者集団として朝鮮半島からも人々が渡来した。なおこの時代の日本は、一方的に渡来人を受け入れその文化に染まっていったわけではない。「漢書」には倭人が季節ごとに楽浪郡に使者を遣わしてくることや、倭国王帥升が金印のちょうど50年後の107年に入貢の際に160人もの人(生口、奴隷のこと)を送ったことが後漢書の記録に残っている。[4] また卑弥呼や台与(壹與)の時代にも生口を送っている記録があり、日本側からも積極的に人を送っていたことが見受けられる。

大和朝廷に仕えた渡来人としては、秦氏、東漢氏、西文氏が代表的であり、他に鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体朝・敏達朝)、鞍部多須奈(用明朝)、鞍作止利仏師(推古朝)、高向玄理、新漢人旻、鑑真などがいる。

また飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来した。中でも最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、百済系氏族の長的な存在となった。

かつては帰化人という呼び名が学会の主流であったが、「帰化」には日本中心的なニュアンスがあるとして上田正昭らにより「渡来人」の呼称が提唱され、学界の主流となった。しかし、「渡来」には単に渡ってやって来たという語義しかなく、倭国王(治天下大王)に帰属したという意味合いを持たないため、やはり「帰化」を用いた方が適切だとする関晃・平野邦雄らの見解もある。

新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。

『新撰姓氏録』は、京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。後述するように、記載氏族が限られているとはいえ、日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。

現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。

なお、書名に『新撰』とつくのは、企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』が存在していたわけではない。

皇別・神別・諸蕃
本書には、全部で1182氏姓が記録され、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類されている。

皇別
筆頭にあげられた「皇別」の姓氏とは、神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族のことで、335氏が挙げられている。代表的なものは、清原、橘、源などがある。皇別氏族は、さらに、皇親(「真人」の姓(カバネ)をもつ氏族)とそれ以外の姓をもつ氏族に分かれる。

神別
「神別」の姓氏とは、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族のことで、404氏が挙げられている。神別姓氏は、さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に付き随った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前から土着していた神々の子孫を「地祇」として3分類している。

「天神」に分類された姓氏は藤原、大中臣など246氏、「天孫」は尾張、出雲など128氏(隼人系の氏族は天孫に分類される。)、「地祇」は安曇、弓削など30氏がある。

諸蕃
「諸蕃」の姓氏とは、渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、「漢」として163氏、「百済」として104氏、「高麗」(高句麗を指す)として41氏、「新羅」として9氏、「任那」として9氏がそれぞれ挙げられる。

また、これらのどこにも属さない氏族として、117氏が挙げられている。

2009年01月21日

国際大会などで使用されるのは12インチ

野球同様、本来は皮革を縫い合わせたものを使用する。いくつかの大きさがあるが、国際大会などで使用されるのは12インチのものである。色は、皮革部分、縫い糸とも白色が一般的であるが、2002年よりISF(国際ソフトボール連盟)主催の国際試合などでは、皮革部分:黄色、縫い糸:赤のものが使用されるようになった。内部の芯にはコルクやカポック繊維、発泡ポリウレタンが用いられる。

日本ではそのほかに、ゴム製のものが公式球として認められており、

3号球:中学生以上の一般用。大きさは12インチのボールと同じで周囲が30.5cm
2号球:小学生向け。周囲は28.6cm
1号球:小学生・低学年向け。周囲は26.7cm。なお、小学生の体力テストの「ソフトボール投げ」はこのボールを使用する。
ゴムボールも白色が基本だが、全面を黄色とするものも公認球として市販されている。

オフィシャルボールの規格基準 名  称 周囲と誤差 重さと誤差
1号ボール(ゴム) 26.70cm ± 0.32cm 141g ± 5g
2号ボール(ゴム) 28.58cm ± 0.32cm 163g ± 5g
3号ボール(ゴム) 30.48cm ± 0.32cm 190g ± 5g
3号ボール(皮) 30.48cm ± 0.32cm 187.82g ± 10.63g

日本のボールメーカー
日本ソフトボール協会が、2007年度に公認球メーカーとして認定しているのは以下の5社である。

ミズノ株式会社
ダルマボール株式会社
内外ゴム株式会社*
ナガセケンコー株式会社*
ダイワマルエス株式会社*
「*」をつけたメーカーは皮製・ゴム製の両方のメーカーである。それ以外は皮製のみ。

バット
ソフトボールは野球と比較すると、野球より大きいボールを、野球より細いバットで打つ。 国内では、ボールに対応する3種のバットがあり、使用するボールに対応したバットを使わねばならない。

3号バット:3号球を使用する場合にはこのバットを使わねばならない。なお、皮ボール対応のものと、ゴムボール専用のものの区別がある。
2号バット:2号球、1号球を使用する場合に使われる。
1号バット:2号球、1号球を使用する場合に使われる。
材質は、木が基本で竹製なども認められているが、現在市販されている公認バットはほぼ全てアルミ等の金属製品やセラミックス製品で、グリップ部分には安全用のテープを巻くことになっている。

オフィシャルバットの規格基準 名  称 長  さ もっとも太い部分
の直径と誤差 重 さ 安全グリップ
1号バット 78.8cm以内 5.08cm以内
+0.79mm 1.08kg以内 23.1cm以上
34.6cm以内
2号バット 81.3cm以内 5.08cm以内
+0.79mm 1.08kg以内 23.8cm以上
35.8cm以内
3号バット 86.36cm以内 5.72cm以内
+0.79mm 1.08kg以内 25.4cm以上
38.1cm以内

このように各号のバットについては下限規定がない項目が多い。従って、極端な場合ではあるが、例えば長さ78.8cm、最大直径5.150cm、質量700g、安全テープが34cmのバットは1 - 3号のいずれにも適合する。無論、同一バットが複数の号の認定を受けることは出来ないが。しかし、小学生の場合には現実に1号にも適合するバットが2号バットとして販売されていることが多い。従って、購入時には号数よりも長さや質量に注意して、自分に合ったものを選択することが肝要である。

オリンピック
夏季オリンピックでは、1996年のアトランタ大会にて、女子のみが野球と共に正式種目になった。当初はアトランタ大会限定とされたが、その後継続が決定した(2008年の北京大会まで開催された)。

2012年ロンドン大会では、野球と共に競技種目から外れることとなった。2016年大会以降の開催については未定となっている。

これらの過程では、男子の野球と女子のソフトボールとがペアとして扱われている。競技種目からの除外については、共に世界的な普及度が高いとはいえないこと、さらに野球でメジャーリーグ選手の出場がなく、世界最高レベルの競技が行われていないことが理由とされている。

ページシステム

準決勝は予選の (A) 1位と2位、 (B) 3位と4位が対戦し、 (A)の試合の勝利チームは自動的に決勝戦へ、 (B)の試合の敗者はその時点で負け抜けとなる。
翌日、準決勝 (C) として、 (A) 敗者と (B) 勝者が決勝戦進出のもう1つの枠をかけて対戦し、その勝者が準決勝 (A) 勝者と優勝を争う。
2004年のアテネ五輪では、準決勝3試合を8月22日の1日で一括して開催し、その翌日(23日)決勝を行った。また2006年世界選手権(北京)では予選リーグの上位8カ国(各組4位まで)が出場しているため変則な方式が採用されている。
(準々決勝)
A1位vsB2位(A)、B1位vsA2位(B)→それぞれの勝者は自動的に準決勝進出。
A3位vsB4位(C)、B3位vsA4位(D)→それぞれの勝者は前者はAの敗者と(E)、後者はBの敗者と(F)それぞれ敗者復活戦を行いそこで勝てば準決勝進出。
準決勝進出チームは成績上4位以上確保のため北京オリンピック出場権獲得
(準決勝)
Aの勝者vsBの勝者(G)→勝者は自動的に決勝戦進出。
Cの勝者vsDの勝者(H)→勝者はEの敗者と3位決定戦(I)を行い、勝てば決勝戦進出。
(決勝戦)
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

Gの勝者vsIの勝者による対戦で優勝を決める。
(これらの詳細はこのサイトを参照されたい)
なお、中華人民共和国は当大会と北京五輪のホスト国であるため、ベスト4に入った場合には規定により準々決勝敗者復活戦におけるEの敗者vsFの敗者による5位決定戦(勝者が北京五輪出場)を行う。

大学 (男子)
日本体育大学(2008年度インカレ優勝-最多優勝回数27回)、国士舘大学(優勝4回)、早稲田大学(2005年初優勝)の3校がずば抜けた実力を持っている。 近年では国際武道大学、中京学院大学、神戸学院大学なども力をつけてきている。

関西リーグ
京都産業大学、立命館大学、神戸学院大学が他を圧する実力を持っているが、他の地域に比べ中堅層(同志社大学、大阪経済法科大学、京都大学など)が厚い。
東海リーグ
18大学参加、3部制リーグ。近年、中京学院大学が他を圧倒。中京大学、岐阜聖徳学園大学などが続く。
東京都リーグ
日本体育大学、国士舘大学、早稲田大学の3校を擁し、大学では最もレベルが高いリーグとされている。
関東リーグ

大会一覧
世界女子ソフトボール選手権大会
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